こんにちは。ATC環境アドバイザーの立山裕二です。これまでエコプラザカレッジの講師として、また環境ビジネス情報の記事などを執筆させていただいておりました。
今回はSDGsの注意点について、まとめたいと思います。
ある人からのご質問
「ボクが環境の勉強を初めて半年くらいたうちましたが、この間にたくさんの人とお話をしました。真剣に耳を傾けてくれる人、ていねいに教えてくれる人、ボクを傷つけることなく間違いを直してくれる人・・・・。
環境のことを学ぶことができたのも良かったけど、いろんな人に出会えたのはボクにとっての素晴らしい経験になりました。
ただ、出会った中には消極的というか、問題意識が低いというか、なかなか環境問題に取り組もうとしない人もいます。いろんな反論が返ってきて、それに答えられないボク自身が歯がゆいのです。
たぶん立山さんもいろんな反論を受けていると思うのですが、どのように答えているのですか?」
確かに私もたくさんの反論を受けてきました。
特に「行動を起こさない理由」をあげる人が多かったように思います。
私が環境問題に関心を持ち始めた40年前とは違って、現在は膨大な情報が蓄積されています。しかも、インターネットで直ちに調べることができます。
少し調べるだけで、環境問題がかなり深刻になっていることが分かります。
それに、充分なデータがないと行動を起こせないわけではありません。
十数年前の少ないデータでも「何とかしたい衝動」に駆られ、行動を開始した人がいます。私もそのひとりです。そして、同じような志を持つ人が集まり、実践を続けています。
とは言え、世の中は多様性に満ちています。現在の膨大なデータを見ても、行動・実践をためらっている人がいます。データそのものを疑っている人もいます。
もちろん、その人なりの考えがあってのことですから、私がとやかく言う筋合いのものではありません。
ただ、これからに挙げる「行動をためらっている」あるいは「行動しない」理由には疑問を抱かずにはおれないのです。
ここで、そのことについて少し考えてみたいと思います。
1.環境問題は科学的に議論されなければならない?
環境問題のことを講演したり執筆していると、たくさんの人からご意見をいただきます。
すでに何らかの活動をしている人は、具体的な事例や効果について教えてくれます。
一方、活動していない人や、活動したくない人、また環境問題を学問的興味のみでとらえてる人からは、ほとんど同じ意見をいただきます。
それは、「環境問題は科学的に議論されなければならない」というものです。
なるほど、その通りかも知れません。しかし、「科学的という意味を分かっていれば」の話です。
残念ながら、多くの場合「行動しない理由」や「行動したくない理由」として使っているように思えてなりません。
というわけで、「科学的とは何か」について考えてみましょう。
科学的とは?
科学的と聞いて、どんなイメージが浮かぶでしょうか?
街の声を聞いてみました。
「何か権威がありそう」「理論的な感じ」「正しそう」「理科系の発想」・・・・。
何となく分かるような気がします。
また科学書には、科学的とは「検証できること、反証できること、再現性があること」のようなことが書いてあります。
ここで「反証」とは、「それは間違っているぞ、という証拠をつきつける」ことです。
つまり科学的とは「反証できること」、すなわち「実験や観察によって、間違っていると指摘されるリスクを持っていなければならない」ということになります。
ブレヒトという人が「ガリレイの生涯」という著作の中で、「科学の目的は、無限の英知への扉を開くことではなく、無限の誤りに1つの終止符を打つことだ」と言っています。
要するに「科学的というのは、今まで間違ってたことを正していくプロセス」ということができると思います。
少なくとも、「科学的だからといって正しいとは限らない」のです。
ところで、科学は反証可能性が命ですから、常に反論が出てくることは当然です。しかし、これは同時に「永遠に結論が出ない(結論を出さない)可能性」を示しています。
地球温暖化など地球環境問題のリスクを考えると、私たちは永遠に結論のでない議論を当てにするわけには行きません。
極めて当然のことですが、科学的に追求すると同時に、リスクの低減のための行動を行うべきではないでしょうか。
これからも様々な仮説が出てくると思いますが、「もしそれが間違っていたらどんなリスクが発生するか」を検討し、より大きなリスクを回避する予防的な行動をとる必要があると思います。
議論に勝った方が正しいとは限らない。
これも大きなリスクですね。
環境科学分野に限らず、すべての科学者には、ブレヒトの言葉を噛みしめて、本質の追究に全力を傾けていただきたいと思います。
一方、私たち一般人は、彼らを温かく見守り、精一杯の応援と支援を続けることが必要です。
ところが、どうも「科学者と一般人の間に深くて大きな溝がある」ような気がしてならなかったのです。
その理由を考えていた時、『「科学的」って何だ!」』(松井孝典/南伸坊共著:ちくまプリマー新書)という本に出会いました。
それによると、科学は「わかるか、わからないかの世界」、世間は「納得するか、納得しないかの世界」だというのです。納得です!
これでハッキリしました。科学者として分かったことを科学的データを駆使して説明しても、一般人は「納得しない限り動かない」のですね。
どちらが正しいかとか、どちらが偉いかという問題ではなく、それぞれの違いを認め合うことが不可欠です。
だとしたら、科学者は、科学的データや仮説を一般人が納得できるように表現しなければなりません。
そして、私たち一般人も可能な限り科学的知識を身につけ、分散した要素を統合し、誰もが納得できるような行動指針を創り上げなければなりません。
こうして科学者と一般人の溝を埋めることも、環境問題の解決のために不可欠だと思います。
2.データが古いので参考にならない?
環境問題について話し合う時、必ずデータを使います。このデータは当然適切でなければなりません。
ここで適切というのは、「正しいデータであること」はもちろんですが、「いつ」「どこで」「誰が」「どんな方法で」「どんな条件で」「どんな仮定に基づいて」測定したのかという、「背景」が確かでなければなりません。背景のハッキリしないデータは、タコの入っていないタコ焼きのようなものです。
そういう意味で、「海面は上昇していない」とか「南極の温度はマイナス50℃だ」という人がいたとしても、背景(測定条件)が明らかにされていない場合は真に受けない方がいいのです。
また「北極=北極海」など、「間違った仮定に基づいた仮説は、間違いしか産み出さない」ことにも注意してください。
そして、データに関して「このデータは5年前のものだから、古くて使えない」などという人もいます。もちろん間違っているデータは使い物になりませんが、古いからといって使ってはならないとすると、とても奇妙なことが起こります。
当然のことで今使っている最新のデータは、5年後、確実に「5年前のデータ」になるのです。その時、古くて使えないのなら「今でも使えない」はずです。そんなことになったら、永遠に使えるデータは出てこないかも知れません。
古かろうが新しかろうが、きちんとした背景の備わったデータを尊重し、活用することが大切なのではないでしょうか。
これでこのシリーズを終わります。
次回からは少し形態を変えて書いていきたいと思います。
コラム著者