こんにちは。ATC環境アドバイザーの立山裕二です。これまでエコプラザカレッジの講師として、また環境ビジネス情報の記事などを執筆させていただいておりました。
今回も、前号に引き続きSDGsの重要な課題でもある「気候変動(地球温暖化)」について書かせていただきます。
ただし、気候変動にこだわらないことをお断りしておきます。
私が環境問題に関心を持ち始めた40年前とは違って、現在は膨大な情報が蓄積されています。しかも、インターネットで直ちに調べることができます。少し調べるだけで、環境問題がかなり深刻になっていることが分かります。
それに、充分なデータがないと行動を起こせないわけではありません。 十数年前の少ないデータでも「何とかしたい衝動」に駆られ、行動を開始した人がいます。私もそのひとりです。そして、同じような志を持つ人が集まり、実践を続けています。
とは言え、世の中は多様性に満ちています。現在の膨大なデータを見ても、行動・実践をためらっている人がいます。データそのものを疑っている人もいます。
もちろん、その人なりの考えがあってのことですから、私がとやかく言う筋合いのものではありません。
ただ、これから挙げる「行動をためらっている」あるいは「行動しない」理由には疑問を抱かずにはおれないのです。
ここで、そのことについて少し考えてみたいと思います。
1.環境問題は科学的に議論されなければならない?
環境問題のことを講演したり執筆していると、たくさんの人からご意見をいただきます。
すでに何らかの活動をしている人は、具体的な事例や効果について教えてくれます。
一方、活動していない人や、活動したくない人、また環境問題を学問的興味のみでとらえてる人からは、ほとんど同じ意見をいただきます。
それは、「環境問題は科学的に議論されなければならない」というものです。なるほど、その通りかも知れません。しかし、「科学的という意味を分かっていれば」の話です。
残念ながら、多くの場合「行動しない理由」や「行動したくない理由」として使っているように思えてなりません。
というわけで、「科学的とは何か」について考えてみましょう。
◆科学的とは?
科学的と聞いて、どんなイメージが浮かぶでしょうか?
街の声を聞いてみました。「何か権威がありそう」「理論的な感じ」「正しそう」「理科系の発想」・・・・。
何となく分かるような気がします。
また科学書には、科学的とは「検証できること、反証できること、再現性があること」のようなことが書いてあります。ここで「反証」とは、「それは間違っているぞ、という証拠をつきつけるか」ということです。
つまり科学的とは「反証できること」、すなわち「実験や観察によって、間違っていると指摘されるリスクを持っていなければならない」ということになります。
ブレヒトという人が「ガリレイの生涯」という著作の中で、「科学の目的は、無限の英知への扉を開くことではなく、無限の誤りに1つの終止符を打つことだ」と言っています。
要するに「科学的というのは、今まで間違ってたことを正していやややプロセス」ということができると思います。
少なくとも、「科学的だからといって正しいとは限らない」のです。
ところで、科学は反証可能性が命ですから、常に反論が出てくることは当然です。
しかし、これは同時に「永遠に結論が出ない(結論を出さない)可能性」を示しています。
地球温暖化など地球環境問題のリスクを考えると、私たちは永遠に結論のでない議論を当てにするわけには行きません。
極めて当然のことですが、科学的に追求すると同時に、リスクの低減のための行動を行うべきではないでしょうか。
これからも様々な仮説が出てくると思いますが、「もしそれが間違っていたらどんなリスクが発生するか」を検討し、より大きなリスクを回避する予防的な行動をとる必要があると思います。
議論に勝った方が正しいとは限らない。これも大きなリスクですね。
環境科学分野に限らず、すべての科学者には、ブレヒトの言葉を噛みしめて、本質の追究に全力を傾けていただきたいと思います。
一方、私たち一般人は、彼らを温かく見守り、精一杯の応援と支援を続けることが必要です。
ところが、どうも「科学者と一般人の間に深くて大きな溝があるような気がしてならなかったのです。
その理由を考えていた時、『「科学的」って何だ!」』(松井孝典/南伸坊共著:ちくまプリマー新書)という本に出会いました。
それによると、科学は「わかるか、わからないかの世界」、世間は「納得するか、納得しないかの世界」だというのです。納得です!
これでハッキリしました。科学者として分かったことを科学的データを駆使して説明しても、一般人は「納得しない限り動かない」のですね。
どちらが正しいかとか、どちらが偉いかという問題ではなく、それぞれの違いを認め合うことが不可欠です。
だとしたら、科学者は、科学的データや仮説を一般人が納得できるように表現しなければなりません。そして、私たち一般人も可能な限り科学的知識を身につけ、分散した要素を統合し、誰もが納得できるような行動指針を創り上げなければなりません。
こうして科学者と一般人の溝を埋めることも、環境問題の解決のために不可欠だと思います。
2.データが古いので参考にならない?
環境問題について話し合う時、必ずデータを使います。このデータは当然適切でなければなりません。
ここで適切というのは、「正しいデータであること」はもちろんですが、「いつ」「どこで」「誰が」「どんな方法で」「どんな条件で」「どんな仮定に基づいて」測定したのかという、「背景」が確かでなければなりません。
背景のハッキリしないデータは、タコの入っていないタコ焼きのようなものです。
そういう意味で、「海面は上昇していない」とか「南極の温度はマイナス50°Cだ」という人がいたとしても、背景(測定条件)が明らかにされていない場合は真に受けない方がいいのです。
また「北極=北極海」など、「間違った仮定に基づいた仮説は、間違いしか産み出さない」ことにも注意してください。
そして、データに関して「このデータは5年前のものだから、古くて使えない」などという人もいます。もちろん間違っているデータは使い物になりませんが、古いからといって使ってはならないとすると、とても奇妙なことが起こります。
当然のことですが、今使っている最新のデータは、5年後、確実に「5年前のデータ」になるのです。その時、古くて使えないのなら「今でも使えない」はずです。そんなことになったら、永遠に使えるデータは出てこないかも知れません。
古かろうが新しかろうが、きちんとした背景の備わったデータを尊重し、活用することが大切なのではないでしょうか。
3.権威者がそう言っているから、誰かがそう言っていたから・・・・?
自分の目でものを見、自分の心で感じる人間がいかに少ないことか。
【アインシユタイン】
よく「今さら江戸時代には戻れない」「縄文時代に戻れるわけがない」という声が聞こえてきます。
それは事実でしょうか?
自分の本音でしょうか?
このように言われたとき、私は「そうかもしれませんね」と受け止めたあとで、「失札ですが江戸時代に住んでいたことがあるのですか?」とか「ひょっとしてあなたの前世は縄文時代だったのですか?」と笑いながら尋ねます。
「ふざけるな!」と叱られそうですが、どうして住んでもいない頃のことが分かるのでしょうか。第一、「江戸時代や縄文時代が不幸だった」と決めつけては、大先輩たちに失礼だと思います。
ただ、自分で調べた上でそう思うのなら、私としては否定のしようがありません。
しかし、「誰かがそう言ったから、そのように思い込んでいるだけ」だったら、少し危険です。
アインシュタインは、このことを嘆いているのではないでしょうか。
私の場合は、いろいろ調べてみて「確かに、人身売買があったとか、階級差別があったとか、陰の部分を見ると住みたいとは思えないが、循環の中で生きていたとか、互助精神に溢れていた、などという光の部分を見ると江戸時代に住むのもまんざらではないな」と思うようになったのです。
もし、江戸時代の人に現代社会の「便利、快適という光の部分」と「環境破壊、交通事故、いじめ、世代間の断絶・・・・などの陰の部分」を別々に見せたとき、どのように反応するか見てみたい気がします。
昔に戻るか否か、という二者択一ではなく、「持続可能な社会を築くために、どの部分を昔に戻し、どこを戻さないか。今のいいところと悪いところはどこか」などについて大いに語り合う必要があるのではないでしょうか。
できれば、地球環境の現実を本で読んだり聞いたりした時、自分でも調べてみてくださいね。
◆研究者の意図が正しく伝わっていないかも知れない
では、1つ応用問題を出します。
2007年5月21日付の「某新聞」に次のような記事が掲載されました。
グリーンランドの氷河解けても気候の激変ない東大など解析冒頭の部分を引用します。
グリーンランド氷河が溶けて大量の真水が北大西洋に流れ込んでも北半球の急激な気候の変化は起きそうもない。
東京大学と海洋研究開発機構の研究チームがスーパーコンピューターを使った解析で明らかにした。
地球温暖化によって気候激変が起きるとする有力説を覆す研究成果だ。
これを読んでどう思いましたか?
「気候の激変が起きそうもないので良かった」思いましたか?
私は、この記事を読んで大ショックでした。私の「気候激変予測」が外れたからではなく、あまりに情けない研究者の見解と、それを鵜呑みにしている新聞社の姿勢にです。
もう一度記事の最初を見てください。
グリーンランドの氷河が解けて大量の真水が北太平洋に流れ込んでも北半球の急激な気候の変化は起きそうもない。
このこと自体が「気候の激変」ではありませんか。
この記事は、「気候の激変が起こった後、気候の激変が起こらない」という恐るべき解釈になっています。
グリーンランドの氷河が解け、大量の真水が流れ込むと言う状況は、すでに北極圏の気温が相当上昇していて、アラスカやシベリアの氷河も大量に溶けているはずです。
北極海に浮かぶ氷山も消滅しているかも知れません。
この状況を「気候の激変と認識しない」研究者の意識はどうなっているのでしょうか?
そして、それを真に受けた新聞社。まさに「ゆでガエル現象」ですね。
ここで「ゆでガエル現象」とは、水の入った鍋にカエルを入れて徐々に温めていっても、カエルは気持ちいいので飛び出そうとせず、熱いと気づいたときには手遅れで、結局はゆで上がってしまうという話です。
あの「デイ・アフター・トゥモロー」という映画で描かれた「氷河期襲来」が激変であり、それ以外は緩慢な変化と見なしているとしたら、それは明らかに認識違いです。
地球の平均気温が2度上昇すると、気候や生態系に激変が起こるというのが、多くの識者の見解なのです。
また、新聞記事で「研究成果」という言葉を使っていますが、いったい何にとって、誰にとっての「成果」なのでしょうか。
ひょっとしたら、この研究グループはこの発表の際に「だからといって温暖化が進行して良いわけではない」というようなことを言っているかも知れません。しかし、それが記事になるかどうかは、記者ひいては新聞社の判断です。
研究者は、自分が発表したことが正確に伝わっているかどうか確かめるべきです。でないと、自分自身の信用がなくなってしまいます。「これだけは外さないで欲しい。
それができなければ記事にしなように」という毅然とした態度で記者会見に望んでいただきたいと思います。
私はできるだけ批判は避けたいのですが、あまに納得のいかない記事でしたので、あえて取り上げさせていただきました。
4.実際に見ていない人は環境問題を語る資格はない?
人間は他人の経験を利用するという特殊な能力を持った動物である。
【コリングウッド】
何事も「体験しなければ分からない」「実際に見なければ分からない」というのは、確かにその通りだと思います。
しかし、「体験しなければ、実際に見なければ環境問題を語る資格がない」としたら・・・・。
途上国の飢餓、貧困やスラム化、熱帯林の破壊、南極棚氷の崩壊、ヒマラヤ氷河の縮小、アラル海の消滅、黄河の断流・・・・・・など、ほとんどの人が体験はおろか、実際に見ることもできません。
では、環境問題は一部の人にしか語る資格がないのでしょうか?
そんなことで特権階級をつくるなんてナンセンスですね。
でも、心配することはありません。人間には、他人の経験を活用する能力と、他人の気持ちに共感できる心があります。私たちが人間である限り、大丈夫です。
環境問題は誰にも語る権利があります。絶対に特権者を作ってはいけません。
それぞれは、ちっぽけな体験でも構わないのです。小さな体験がたくさん集まれば、人類総体としての体験の蓄積ができます。人間が人間であることを止めない限り、希望が消えることは決してないのです。
さあ、安心して小さな体験を積み重ね、大いに語りましょう!
コラム著者