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郡嶌コラム 第10回「『命の経済』と環境ビジネスの役割」

郡嶌コラム

2021年3月31日

郡嶌コラム 第10回「『命の経済』と環境ビジネスの役割」

同志社大学名誉教授・おおさかATCグリーンエコプラザ顧問の郡嶌 孝氏による特別コラムの第10回を配信いたします。


コロナウイルスの終息は一向に見えない。その不確実な将来に「引き籠り」を余儀なくされた人々は苛立ちを見せている。生活の先行きへの不安、経済の先行きへの不安、それらが苛立ちをさらに増幅する。ポストコロナは「ウイズ・コロナ」かも知れないし、このコロナが終息しても新たなウイルスによるパンデミックが招来するかも知れないと不安がる人もいる。

この状況は、人々の非衛生な暮らしと自然破壊により、これまで「棲み分け」をしていたウイルスが、その棲み家であった生物圏を失い、新たな棲み家を求めて、我々、人間圏への侵略を始めたことから生じたともいえる。人間の生物圏への侵略が、今度は、彼らの人間圏への侵略を招いた。人間は万物の霊長として自然を支配し、その結果、自然からの逆襲を受けている。そうであるならば、「ウイズ・コロナ」にあっては、ウイルスとの「共生」しかない。ただ、ウイルスの弱毒化を願うだけである。

コロナ禍が我々人間の傲慢な自然破壊にあることは確かである。自然破壊の延長線上に、「豊かさ」の代償としての「地球温暖化」問題がある。温暖化の影響によって永久凍土が融けるとともに新たなるウイルス予備軍が控えている。今後、我々がこの地球に生きていく上において、人間活動の展開において、「地球=環境」とどう付き合っていくかは、我々の生存を賭けた重大な問題である。「地球は燃えている」(ナオミ・クライン)のだ。我々の活動は地球制約を否応なく意識せざるを得なくなった。地球は無限ではなく、有限なのだ。まさに、「母なる地球」は一つなのだ。

この有限な唯一つの地球に暮らしていかねばならない。その暮らしの知恵が経済(暮らしの経済)に求められる。そのための経済は、「プラネタリバウンダリー(ハンス・ロックストーム)」の安全と「社会的動物」である我々の寄って立つ社会的基盤(ケイト・ラワース)に「誰一人取り残さない」公正、すなわち、「安全と公正」の経済への転換が 21 世紀の課題であり、SDGsの問題となる。

ヨーロッパの知性、ジャック・アタリは、コロナをふまえて、これからの経済は「命の経済」であるという。我々は命を紡ぐためにコロナと闘い、暮らし(経済)を営まなければならない。コロナと闘うことも、経済(暮らし)を営むのも「命」を守るためだ。今のところ、残念ながら、我々はこの二つの行為を両立させる知恵を未だ持ち得ていない。J.アタリは、これからの経済にとって、「デジタル化」と「非接触」による「命の経済」の持続性が重要であるという。そして、この「命の経済」は、従来、市場経済のみならず、市場経済の外でも営まれてきたのである。共助、「分かち合い」による社会経済(共生経済)の存在である。生きていくために、健康・食糧・教育・住まい・文化等「生きていくために基本的なニーズをなす経済的営み」が命を人間らしく支えてきた。しかし、これらは、市場経済において、営利目的のために、医療サービス・農業・教育サービス・住宅サービス・文化的サービスとしてビジネス化された。

コロナ禍で見えてきたのは、命を支える営みが営利化・ビジネス化された、これらの財・サービスの提供のあり方である。

J.アタリは、これらを市場経済で供給し続けるには「デジタル」化されたビジネスおよび「非接触」(ステイアットホーム)ビジネスとして再構築する一方で、Commoning (「分かち合い=今一つのシェアエコノミー)することこそ、これからの「環境・福祉」ビジネスであるという。自然を前提にして成り立つ経済であるからこそ、「環境」ビジネスは、この「命」を紡ぐビジネスとして「奪い合い」の経済から「分かち合い」の経済への触媒にならなければならない。そうすれば、「命の経済」が、「愛の経済(ケネス・ボールディング」)」と呼ばれることになろう。

コラム著者

同志社大学名誉教授・おおさかATCグリーンエコプラザ顧問

郡嶌 孝