同志社大学名誉教授・おおさかATCグリーンエコプラザ顧問の郡嶌 孝氏による特別コラムの第11回を配信いたします。
米国では、1960年代の環境運動を「エコロジー運動」という。R・カーソン「沈黙の春」、B・コモナー「なにが環境の危機を招いたか(原題は「輪を閉じろ」)」、P・エーリック「人口爆弾」が、いずれも、ベストセラーになり、自然(エコロジー)への関心が高まった。この高まりを背景にして、1970年4月22日「アースディ」の催しが開催された。
アースディは、ウィスコンシン州選出のゲイロード・ネルソン上院議員による環境問題への政治的取り組み宣言に応じた当時スタンフォード大学の大学生で全米学生自治会長デニス・ヘイズの呼びかけで全米各地でティーチインやダイイン、音楽イベント等多彩なイベントが開催された。このような社会運動の展開は、やがて、政治的課題となり、ニクソン政権は、米国環境保護庁(EPA)の設立、各種環境法の制定を促すことになった。
社会的関心が運動となり、政治を動かし、やがて、法制化、その法制化とともに政策化(規制・環境管理)されることは、米国の環境政策が民主主義の成果であると同時に、それまでの「環境問題は州政府の問題」とされていた、取り組みの枠組みを大きく変えるものとなった。この法制化の前に、そもそも、米国では、「環境問題は連邦政府が取り組むべき問題か」から始まって、「取り組むべきだとすれば、どのような原則で関与すべきか」という民主主義の根幹に関わる問題提起から答えを出さなければならなかった。これが、「全国環境政策法」の制定である。連邦政府が環境問題に関わる原則として①100%科学的根拠に基づくこと(後悔しない政策)②民主的手続きによる透明性(アカウンタビリティーとトランスペアレンシー)を担保した法制化、が謳われた。
このような、民主主義に基づく法制化は、社会運動による社会問題化、そして、政治化、法制化によって、取り組みへの「制度的沈殿」が図られる。法制化は、制度(ゲーム)の変更の機能を持つ。しかし、やがて、この制度変更は新たな環境問題を提起する。それは運動を「新しい運動」へと変容させる。①地球規模の環境問題と②エコロジー運動の主体が白人の中間階層による運動であることからマイノリティや低所得者等の社会的弱者の環境運動への参加の包摂問題である。これらの問題提起が、「エコロジー運動」から「環境運動」そして、「環境正義運動」へと運動を進化させる。とりわけ、少数派の「声なき声」を掬い上げる「アドボカシー」が民主的に機能する。
1980年代からのオゾン層破壊等「地球規模の環境問題」への取り組みは、エコロジー運動を「環境運動」へ、1990年代のクリントン政権の「環境正義」に関する大統領行政命令は、汚染源のマイノリティや低所得者の居住地域への集中を防止する「環境正義運動」を受けたものである。民主的環境政策は、運動そのものを進化・変容させ、それは、また、環境政策の体系化へと昇華される。
1970年代の環境問題への先進的取り組みとして、米国の「民主的体系的法制」化、日本の「環境技術指向的環境政策」そして、スエーデンの「国際的環境政策の展開」が歴史的に評価されるのは、それぞれの国の事情を抱えながら、普遍的な方向性を示していたからに他ならない。
今、バイデン政権の環境政策に注目が集まっている。まだ、一般教書報告もなされていないので、バイデン政権がどういう環境政策を打ちだし、議会にどういう議案の成立を望んでいるか分からないが、既に、議員立法を基本とする議会は幾つかの環境分野での規制立法に動いている。
バイデン政権は、大統領行政命令で、すでに、「パリ協定」への復帰に署名し、停滞していた気候変動問題へイニシァティブを取ろうとしている。「環境正義」に関する行政命令にも署名し、EPA 長官にM・レーガン元北カロライナ州「環境の質」省「環境正義・公正」諮問委員会委員長を指名し、「環境正義」政策を展開することは確実である。これも、環境団体からの提言を受けた措置である。
これによって、シェールガスのパイプライン建設の凍結(ネイティブアメリカンの抗議運動)、石油精製・石油化学工場の新設・増設許可禁止の強化(マイノリティ・低所得者居住地域)がなされた。
トランプ前大統領から「スリーピー・ジョー」と呼ばれた大統領だが、立て続けに行政命令を出す姿は「スピーディ・ジョー」である。
コラム著者